米町(こめまち)一丁目は、旧米屋町(京町こまち通りの北側を中心とした地域)が範囲となっている町内会です。米一(こめいち)の愛称で親しまれ、大きく実った稲穂に米一の文を配した町紋がトレードマークです。小倉祇園太鼓との関わりは深く、江戸時代の文献に町名が出てくるほか、町内会の住宅から、小倉に現存する太鼓では一番古いと思われる、安永9 年(1780 年)製の小太鼓が見つかりました。 米一の小倉祇園太鼓は、小倉京町こまち通り商店街と共にあり、見守られてきました。7 月に入ると、こまち通りで熱心な練習が始まります。本祭の時は、山車がこまち通りから出陣し、まちなかを練り歩いた後、再びこまち通りに帰ってきます。最終日の「打ち納め」も、こまち通り。米一にとって小倉京町こまち通り商店街は、起点であり、終点でもあります。小倉祇園太鼓を見たい方や叩いてみたい方、小倉祇園に興味のある方、迫力のある太鼓を、米一を、こまち通りでご覧ください。いつでもお待ちしております。
井筒屋の道路を隔てたすぐ北側に「小倉京町こまち通り商店街」はあります。個性のある専門店街として一部の人に知られてはいましたが、整備される前は道幅4.5mの名もない狭い通りでした。道の両側には電柱が林立。上空は電線類が縦横無尽に覆い、路上の汚さ暗さと相まって雑然とした雰囲気を醸し出していました。そのため個々の店の努力に関わらず、通りとしての存在感はなく、進んで通りたい道ではなかったと思います。今から25年前、地元有志(当時の若手?)が立ち上がり、その熱意に行政、さらに関係機関・コンサルタントも参加して頂いて、路面のカラー舗装・電線類の地中化・照明デザインの実現化をよび、すっきりした空が屋根のオープンモールに変身させることができました。(完成した平成13年3月当時、北九州市で唯一、住民と地元事業者の強い要請で電線の地中化をした通りと言われていました)
これにより、通りとお店の魅力的な関係が構築され、通りを挟んだ両側の商店交流が芽生えた。さらに夜は美しい光りのトンネルが誕生し、これまでのイメージを一新しました。この「小倉京町こまち通り」の名称は、この通りの完成を契機に名付けられました。名付け親は当時17歳だった地元商店主のお嬢さんのアイデアでした。その意味は「20数店舗が並ぶ小(さな)街」、「個性のあるお店が並ぶ個街」、そして、「旧町名「こめまち(米町)」の「め」抜き通りになろうという夢を持ったこまち」の3つの理由から決められました。
ちなみに、第2回の北九州市都市景観賞にも選ばれました。選出理由は「電柱から広がった電線が上空を蜘蛛の巣のように覆う雑然とした一角が、昼間はすっきりとした通りやすい道に、夜になるとオレンジ色の街路灯が、落ち着いた雰囲気を醸し出す素敵なスポットになったから」だったそうです。
商人(先輩方)の心意気とそれを支援し、実現し新たな商店街コミュニティを構築した、地区住民・行政・関係機関・コンサルタントの皆様のおかげで、現在の小倉京町こまち通り商店街はあります。
出会いに、そして、繋がりに感謝です。
京町銀天街(きょうまちぎんてんがい)は、旧 京町一丁目・京町二丁目・京町三丁目が昭和42年頃に統合してできた町内会です。京町銀天街の一つ目の特徴は、山車の大きな赤い傘。京町銀天街の山車は、旧京町二丁目の山車を使っています。そして二つ目の特徴は、踊るような太鼓(カン)の打ち方です。旧京町一二三丁目の頃から踊るような打ち方をしておりました。山車・太鼓・打法、どれも現在の「京町銀天街」に継承されています。 7月第1週目から練習を開始し、本番初日は町内廻りの後、魚町銀天街(魚一・魚二・魚三)及び旦過市場と一緒になり合同打ちを行います。アーケードの中を5町内会が縦列し、一斉にヂャンガラと太鼓が鳴り響く音色は圧巻です。中日は競演会に出場した後、町内廻りを行い、小林文具店前で打ち込みを行います。最終日は廻り祇園の後、ダイソー小倉京町店横で打ち込みを行います。3日間「あと5分!」「あと1分!」とカウントダウンをしながら時間ギリギリまで名残惜しくも皆笑顔で打ち込む姿をぜひ見に来てください。